人間精神史の中心は、自由、平等、を求める戦いの記録である。
仕上げとして
最大の意義として、
時代の中の偉人
郷中教育を受ける(年下の者は年上を敬い、その言いつけを良く守り。絶対服従であった。
成長期
23歳、、「おゆら騒動島津斉興により処罰された上司の遺言により切腹時の白い血染めの肌着を前に
エピソード
★僧月照について
その後、奄美大島に流され島嫁 愛加奈と結婚し1男1女をもうける。
@コメント
この状況を見て西郷は桐野、村田、別府、池上、辺見ラ幹部40余名
明治31年12月18日(現在東京上野公園)に落成除幕式ガあった
維新の足跡
* 長くなりました。ここまで読んでくださってありがとう。
その自由、平等の道を日本人は明治維新によって開いた。
「四民平等」が目標とされ「五箇条のご誓文」が政策の基本とされて人権を認める諸措置がとられた。
:明治4、5、6念の西郷内閣の時期に、散発、廃刀令、階級差別の改善(呼称廃止令)、宗門、人別長の廃止、
人身売買の禁止令、四民への土地売買の許可、学制の開始、地租改正、
国立銀行条例などの近代化政策が実施された。
:特権と阻害の悪条件から人間を解放しそれぞれの能力を
自由、平等に表現させようという思想を根本にしていた。
注:画像は溝辺町鹿児島空港前にある公園の西郷さんの銅像です
(西郷隆盛)文政10年12月7日〜明治10年9月24日(49歳没)
家族背景・・祖父母、父母、四男三女
武士階級の家が立ち並ぶ加治屋町西郷家は最下級の御小姓与
これに対して年上の者は、年下の者の手本となるように行動し、後輩をきびしく指導した。
12歳、、子供同士の階級争いに巻き込まれ右腕を負傷。
この傷が原因で武術の修行を断念し学問への道を決心する。
17歳、、藩庁に勤務試食は郡方書役助(こうりがたかきやくすけ
)
内容・・農民が藩に納める稲作の出来具合を見積もり年貢を納めさせる。
得たもの
@農業の実態 A農民の哀れさ B年貢の重さ C身分の差別の悲しさ
21才、、郷中の二才頭となり、個人的に禅の修行を始める
得たもの 心の支え
「藩のため、国のために尽くすと暑い涙を流しながら決意する。
28歳、、小姓に昇進 藩主斉彬の参勤交代に従い江戸に上がる。江戸についてすぐお庭番に迎えられる。
斉彬が水戸家を訪問したとき応対に出たものにかたった言葉
「わしは近頃いい物を手に入れた。それは西郷吉之助という若者だ。
身分は低い者ではあるが磨けば玉となるとわしは見ている。
その内ここにも伺わせるから引き立ててやって欲しい。
30歳前半、、斉彬病気により死亡の訃報を受け落胆し悲しみ
殉死しようとする西郷を僧月照が思いとどまらせる。
天保6年京都の清水寺の住職の身でありながら勤皇の志暑く、近衛家の知遇を得ていた。
ペリーが来航して国情が騒然となると弟の信海住職を譲り関東・東北方面へ後国事に奔走。
西郷とともに薩摩の国に逃亡その後二人錦港湾に入水自殺をはかり西郷だけが息を吹き返す(花倉沖)
現在も「西郷隆盛甦生の家」として小さなわらぶきの小屋が空港から市内に入る手前に残っている。
その近くには観光名所島津家の庭園がある。(磯庭園、尚古集成館等)
1度鹿児島に返され2度目は徳之島へ徳之島から沖永良部へ3度目は罪人扱いで流される。
西郷隆盛伝はいろいろ本でかかれ世界中の人が何らかの形で目にしている。
鹿児島の観光バスガイドが紹介し泣いてもらうのが西南の役西郷隆盛最後の場面である。
「西郷軍は各塁で奮戦したが、城山の四方面余すところなく包囲されていた。
岩崎谷を囲む三面の山頂から岩崎谷めがけて集中砲火を浴びる
に洞窟前整列を命じ、やがて幹部を従えて岩崎谷口へ歩を進めた。
島津応吉氏邸前まで来たとき、西郷は右大腿部と腹に敵弾を受けて路上にひざまずいた。
傍らにいた別府晋介に
「晋ドン晋ドン、もうここでよかろ」と。遥か東方を伏し拝んだと同時に
「先生、ごめんなってたもし」と晋介が解釈したのである」
作者は彫刻家高村光雲その時遺族席には弟氏と西郷未亡人イトもいた
「うちの人はこんな格好で人様の前に出るような無作法な人ではなったのに・・・」
との意味の鹿児島弁でつぶやいたのを弟氏が足でひそかに「だまれ」のあいずをおくったという。
作者は西郷隆盛の親しみ深い庶民性をこの銅像に残したかったということらしい。
:革新派、志士は、公家、幕府内革新派によって薩長土芸の連盟
:小御所会議
:鳥羽、伏見の戦い
:江戸城の無血開城
:北越東北地方征討
:廃藩置県などの難所を切り抜ける
:韓国問題
:私学校設立
:西南戦争
* 資料は町内公民館よりお借りいたしました。
* 著者 東郷さねはる「西郷隆盛〜その生涯より〜」