小説・花暦

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■■序章■■

    〜人逝きて 眼(まなこ)に残る微笑みは 揺れる心の糧となりぬる〜



 最近、胸がむかむかしている。
体調が悪いわけでもなく、なぜか人と向き合う事、話す事に虚無感を覚える。
必死に誰かを思っているときの情熱がコトンと落ちてしまったみたいな
それでいて、どこかに自分を必要としてくれる人はいないかと探しているのだ。
人は自分を踏み台にしているのだろうか。自分から見切りをつけてしまうのか。
ほんの些細な事が相手にとっては無神経だったり無配慮だったりする。
人は皆、同じ心ではない。似通った理論はもっていても全てが同じではない。
『そんなこと、分かってるわよ』
テーブルに頬杖をついていた奈緒美は呟きながら腰を上げた。
サラリーマンの夫祐司とは結婚して24年、来年は銀婚式をむかえる。
子供も男女4人を儲け、それぞれが上二人は成人し下の二人も短大生と高校生になった今
専業主婦で暮らしてきた奈緒美にはもう手をかける相手がいないのだ。
今年の冬、同窓会があった。
同じ世代でまだ子育てをしているという同級生が喝采を浴びているのを見て
「あら、この年でまだ子育てなんて、結婚が遅かったのかしら」
等と思いをめぐらしていたが、生成奈保子は
「子作りはもう終わりと思っていたのに突然出来ちゃって」
と朗らかに笑いながら周りを驚嘆させて楽しんでいる。
別に話の中心になろうとは思わないが、奈緒美自身子供を4人もうけたことで
周りから、「今じきすごいわね」という声をきいてきた。
その奈保子は4人の子供が成人して 今は小学生と中学生の子供を育てているという。
長男にはもう子供がいるが、まだ自分の子育てに必死で孫まで手が回らないといい、
「嫁の母親がいいおばあちゃんしてくれてるから任せてあるのよ」
と楽しげに笑っている。
奈保子の周りは花が咲いたように笑い声がとどろいていた。

『へえ、40歳で最後の子を産んだの?』
『よほど夫婦仲が良いのかしら?』
『だから若いのね〜』
などなど、時には卑猥な言葉を浴びせながら質問は続く。
『だって、PTAに行けば皆、若いママたちばかりなのよ。その中で共存しようと思えばね』
『ええ、ええ、私も主人もいまだにラブラブですよ』
その奈保子は屈託のない笑顔で飛び交う質問をするりとかわしていた。
その後、同級生の誰とも会うことはないが妙に心に引っかかり、
気持ちがむしゃくしゃする時など名簿の住所録を開いて彼女の電話番号を探している奈緒美だった。



今日もまた朝から気分が優れず、外出の予定もない。
時にはお茶でもと思っても、気を許して付き合っている友人も
今は家庭を離れて働くようになり殆ど行き来がなくなってしまった。
夫の祐司は結婚してすぐに出世街道を走り出し、転勤をくりかえし、殆ど家を帰り見ずにここまで来た。
『仕事があるから家族を守れる』
それが祐司の信念だという事は理解していたが、あまりの忙しさに夫婦の会話も少なくなり
外でのごたごたを持ち込まない分、
家では殆ど喋らないので子育て時代も母子家庭のような生活をしてきたのだ。
子供が4人出来たのは奈緒美自身が子供の出来やすい体質だったのだろう。
結婚前は子供が欲しいとは思わなかった。できなかければそれでもいい。
祐司さえいれば、二人で楽しくやっていける。
恋愛の延長線で結婚生活は成り立つと思っていたのだ。
実際、子供が出来るまではそれなりに楽しい休日を二人ですごしていた。
祐司が仕事に出ると奈緒美は自分だけの時間を満喫することが出来た。
結婚前まで働いていたので失業保険を貰いに行ったり、その帰りに買い物をしたり
ただ、夜遅くまで帰宅しない祐司を待つ一人きりの生活が続くと、やり場のない寂しさもあった。



 長男亨は、ハネムーンベイビーのつもりでいたが、予定日より半月早く生まれた。
長女知美 次女祐美 次男剛司と身体を休めるまもなく妊娠し産みあげたときは32歳。
子供が生まれて子育てに気を取られると寂しさからは開放されたが、経済的に余裕がなくなってきた。
『贅沢はさせられないけど、奈緒美と僕らの子供達にはちゃんと食べさせてあげるから』
結婚前に祐司が約束したとおり、奈緒美は外に出て働く事もなく振り込まれる月々の手当てと
年2回のボーナスで子供4人を育てた。出世したからといっても手当てが上がることもなく、
与えられた中でやりくりしながら生計を立てて24年。夫婦の財布は別々のものとして
お互いを干渉しない関係が出来上がってしまっていた。



貧しい家に生まれ、母親の働きで育ってきた奈緒美には、仕事をせずに子育てが出来る環境は
理想的だったし、自分が贅沢をさせられなくても祐司が食事に誘ってくれたり、遊びに行く時や
家族旅行に連れて行ったりする費用を出してくれていたので、それ以上のものを欲しいとは思わなかった。
家族の為に大変な仕事をこなし、
夜遅くまで家に帰れなくても愚痴も言わず働いている祐司を信じきっていたのだ。
時の流れの中では、祐司のあまりにも完璧な生活態度に不満を覚える自分がいた。
「彼みたいに申し分のない主人だと、もしも何か不祥事があったときには世間は妻を攻めるんだろうな」

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・・・・・・・島村祐司は生真面目な男だ。大学を卒業した後、管理職候補として今の会社に入社したが
学生時代は苦学生で、生活は学業の間のアルバイトでまかないながら卒業した。
親も学費を出すのが精一杯だった。
そういう環境の中にいたので人より以上に経済観念は出来上がっていたようだ。
無駄な事はしないし、欲しい物もすぐには手を出さずあちこち見回った上で手に入れる。
恋愛にも慎重だったし、経験も少ない方だった。
そう言う性格なので、口数も少なく自分からモーションをかけることはない。
ただ、なんとなく悩みを打ち明けられたりしたとき、聞き役に回り、最後に適切な励ましを添える。
それが人には誠実で信頼の置ける先輩となり、職務についてからは上司として認められてきた。



 就職前にふとしたことで知り合い、妻となった奈緒美は、祐司とよく似ている性格だとおもった。
祐司の信念は、奈緒美のなかにもあり、お互いのプライバシーに立ち入らないという点でも理解しあえた。
付き合い始めて半年が過ぎた頃、腰掛で働いていた職場の先輩夫婦に合わせたことがあったが、
祐司は帰る車の中で
「奥さん、明るくて感じ良いだろう。僕らもあの二人みたいな家庭を作りたいな。」
と言うと奈緒美もまた
「ご主人も優しくて、誠実で暖かいね」
という言葉を返してきた。
まだ25歳という年齢で将来にも不安を抱えた状況だったので、
奈緒美との付き合いに結婚を考えていたわけではなかったが
その日の会話がプロポーズになり、二人の関係はよりいっそう深まっていった。



 そうなると離れて暮らす事が寂しくて、一日顔を見ないと不安になり、声を聞かないと
この関係は夢ではないだろうかと錯覚に陥って自由な空間がむなしくなる。
祐司は奈緒美に夢中だったし、奈緒美もまた祐司に従順だった。
お互いがお互いを必要とし、尊重し、理解しあえる幸せの絶頂期にあった。
時間が来ると帰っていく奈緒美が後ろ髪を惹かれるように振り変える姿が愛しくて、
寝物語に
『既成事実を作ってこのまま一緒に暮らそうか』
等と今まで言った事のない言葉を発したり、
『本当のことを言うと実家には親が決めた許婚がいるんだ』
など、奈緒美を脅してみたりした。
 奈緒美は祐司の一言一言を真剣に受け止めながらまっすぐに見つめ返してくる。
そんなしぐさがまた祐司の情熱を掻きたてていった。
『本当の貴方はどうしたいの?』
そう訴えている眼差しに、
『奈緒美を幸せにしてあげたい。でも、金はあればあっただけのものだ。
贅沢はさせられないけど、奈緒美と僕らの子供達にはちゃんと食べさせてあげるから』
恋人同士は至福のときを過ごしていた。・・・・・・・



 女は思い出を一生大切に胸に残し一人の男に真を尽くす。
男は現実と未来を見つめ過去を忘れる。
いや忘れててはいないかもしれないが
愛を言葉に出す事もなく、本能だけの夫婦生活が営なまれるようになった。
それがあたり前だと思っていたのは、生まれ育った家の環境がそうさせ、
奈緒美は結婚してから仕事人間に代わった祐司に対しても物分りのよい妻になっていたようだ。

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VOL2

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