季節(とき)のワルツ

ライン

■■想い出の中に■■


 昭和20年8月広島 長崎の原爆投下を持って日本は敗戦し、封建的な貴族社会から民主主義の時代へと変わった。
貧しい家庭に生まれ早くに大黒柱を失い、気の弱い母親と生活力のない兄弟を支えるために
学校もまともに卒業することができなかったが、持ち前の気の強さと貧しさの中から見につけた知恵で
故郷を遠く離れて働きに出ていた愛子はとある病院宅のお手伝いさんを最後に終戦間際に実家に戻ってきた。
ここで嫁ぎ先をと雇い主からの声もあったが、故郷に住む親兄弟を思うと断らざるを得なかったのだ。
 仕送りをした残りをコツコツと貯めた貯金を持ち帰り、母親とともに暮らそうと織機を購入しようとしたが
母親に送っていたはずのお金も気の弱い兄は、その妻にいいように使われていたのでその資金も足りず
日雇いに行く母とともに日銭で生活を支えていた。
夫、久山勇吉の義兄岩山圭吾が訪ねて来た頃、愛子は田舎での暮らしに疲れもう一度県外にと考えていた。

 気が周り多少せっかちなところのある愛子は、結婚への覚悟が決まると嫁ぎ先の環境や夫となる勇吉への
同情心もあって話はどんどん進み22年の正月は久山愛子として姑女の世話や、小姑の小言を聞いたりしながら
勇吉の連れ子で9歳になる娘と3歳になってもまだオムツもとれていない息子の母となっていた。
亡き姑は男気があり一代で会社を興しムラの世話役として名を残した人物だったが、
女姉妹の末っ子で一人息子の勇吉は気の弱い依頼心の強い男の育ち、前妻と子を戦争でなくしたという悲惨な経験から
立ち直れず働きには行っても仕事帰りによる酒屋の付けで払いで消えてしまうという生活状態だった。

 義兄岩山圭吾はそういう暮らしの中で懸命に明るく振舞っている愛子に
「あんたなら、勇吉を支えながら立ち直らせてくれると信じてる。口には出さんがあいつもあんたに感謝してるから
いろいろと小姑がうるさいだろうが何とか今はこらえてくれ。つらいときにはうちに来て吐き出せば良い。
うちの奴は姉妹の中でも腹の座った女で口数も少ないし、わしも目を光らせとるから気をつようもっていてくれ。」
そういいながら、畳用の茣蓙を織る仕事を与えてくれていた。
 最初の子を妊娠し、身重になった愛子は織機の前に座っているときが一番楽しく、
大好きな歌を歌いながら日々の気苦労を発散させていた。
そんな愛子に世間の目も冷たく小姑たちも上の娘さえも優しくは接してくれなかったが
唯一、愛子をほかの誰よりも信頼しかわいい嫁として感謝してくれたのは姑女だけだった。

 それから6年 愛子は2度のお産をし、気の弱い夫を支える気の利いた働き者の妻として落ち着いていた。
キム・ソンジェが夫勇吉を訪ねて来るようになったのはこの頃からだった。
最初は愛子の歌声を聞き、足を踏み入れたのだが
偶然にも一時期、勇吉と同じ鉱山で働いていて住所を教えていたらしく再会を喜び合い。人付き合いの苦手な勇吉も
妻子とはなれて暮らす異国の友人の身の上に心を許し夕方のひと時を縁側で楽しげに過ごす日が続いた。
愛子は夫勇吉つかの間の笑顔にひと時の安らぎを感じながらも、相変わらず酒を飲んでは暴れ、
美園の母優子が生まれてからも、夫勇吉は山仕事の後遺症やアルコール依存症で
喘息を引きこし入退院を繰り返しの生活がつづいた。

 多くを語ることなく静かに笑っているキム・ソンジェのさりげない優しさに励まされ慰められ
生まれて初めて男の強さと優しさを肌で感じ心にうけいれられる存在になっていたのだ。
時が過ぎ、住む場所を追われ二度と会うことはなくなっても 偶然が引き起こしたソンジェとの一夜の思い出だけが
その後の愛子にとって、生きるための糧となり記憶の中から消すことのできない存在として、
一人のときを過ごす今に至っていた。
50年を過ぎ、思いがけず現れたソンジェの孫キム・ソルジュと我が子のように慈しんでくれた優子の娘美園が
今現実に自分も目の前で言葉を交わし笑っているのを見て
これから見せることになる愛子だけの秘密の部屋に若い二人がどう反応するか気がかりでもあり
これで自分の人生を終えることが出来るという思いもあって近づくにつれて胸の鼓動も高鳴ってきていた。

初めてにもかかわらず急カーブを巧みなハンドルさばきで国道に下りると、山の風景はそのまま変わることなく
緑は目に優しい。ひっそりと川面から湧き上がる湯煙が、ソルジュの心を穏やかな気持ちにさせていた。
そのときふっと思い立ったように愛子が口を開いた。
「もう少し行くと川に降りられる道があるから、少しだけ寄り道しましょう。
昔は間単に降りられた山道も今はもう駄目ね。残念だけど上から見ることにするわ」
うつらうつらしていたのかうっすらと目を開けて外を見ながら
「おばあちゃんもしかしたら、そこから下に降りられるの?私、降りてみたいな。」
美園が興味深げにつぶやいた。
ソルジュは愛子が指示した場所で車を止めると二人が車から降りるのを見届けて外に出てきたが
眼下に広がる風景に驚いた顔をして立ち尽くしていた。

ライン

VOL2

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