季節(とき)のワルツ

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■■キム・ソルジュの告白■■

資料によると朝鮮は明治43年日韓併合条約により日本の植民地とされ、
日本からの移住者も昭和15年には70万以上いて党幹部を中心に朝鮮全域に憲兵警察を置き全ての権利を奪われた。
日中戦争から太平洋戦争へと情勢が変わりつつあるなか昭和14年から始まった朝鮮人の日本への強制連行は
終戦時までに150万人あまりを越し、その半数はエネルギー源となる炭鉱へと送り込まれた。とある。
中心となったのは20代から30代だったが、10代の少年も多く見られたという。
 悲惨な戦争の歴史のなかに両国のその時代を生きた民衆は何故?を問うことも許されず
間違った教育の中で無残にも尊い生命を落として来たのだ。
戦後60年 戦争を知らない若い世代はその現実を映画やドラマにより娯楽としてみる。

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 キム・ソルジュはソウル市内で生まれたが 両親の都合で母方の祖母 チェ・ミソンの家に預けられた。
女一人で茶畑を営みながら細々と暮しているミソンに、日本のある町役場から荷物が届いた頃はまだ就学前で
届いた荷物の中身を確認しながら涙を流している祖母が心配で肩をさすったやった記憶がある。
「おばあちゃん、大丈夫?」
肩を震わせながら中にはいっていた風景画を
一枚一枚食い入るように見ているミソンに声をかけると
「うんうん」とうなづくだけで言葉を出せずにいるのだ。

 それから後のミソンはこれまでとは打って変わって活発に動くようになり、調べ物をする時間も増えた。
いつか茶畑は売られ、ソルジュと共に娘の家に引っ越したのが小学校入学式前だった。
しばらくは母ミナと口争いをする光景を見ることがあったが数年後、
祖母ミソンは ソルジュの学校が休みのときには、ある建物の中にある画廊に連れて行ってくれるようになった。
そこには若くして引き離された夫キム・ソンジェが祖国を望郷の思いで描いただろう水彩の風景画と
愛する妻や子供に見せてやりたいと思った描いたであろう見知らぬ風景の絵も何点か展示してあった。
 また、別のコーナーには新人画家の絵画も展示され、また別のコーナーでは
ちょっとした喫茶室も設けてあったので、いつ行っても絵を鑑賞する人や気に入った絵をそばにおき
説明を受けながらお茶を飲んでる人などそれなりにミソンが開いた画廊には興味を示す人が増えていった。

 ある時 ソンジェが描いた見知らぬ土地の絵が話題になり、警察がその絵を没収しに来たこともあり、
画廊を閉じなければならない窮地におちいったこともあったが、ソンジェの絵を高く評価し 
無名の画家たちの育成に力を注いでいるミソンの行動に賛同している支援者によって助けられた。
いつかその絵がまた戻ってきて今は1枚だけソルジュの手元に残されているのだ。

「おばあさま、あの風景画は僕のおじいさまがここからこの位置から描いたものですね?」
キム・ソルジュは興奮していた。
感動は大声になり愛子を振り向いてたずねるとそのまま話し始めた

「『ねぇ、おばあさま、これはどこなの?韓国じゃないの?』
子供の頃には何回たずねても教えてくれなかったのに、亡くなる一年前に僕を呼んで
『この場所を探して欲しいの。あの人が過ごした所を見つけて欲しいの。
こんなこと誰にも頼めないから・・でもソルジュ、日本に留学したことのあるあなたになら出来るでしょう?』
って必死に頼んだんです。僕が大学を卒業した後、写真撮影の仕事ついてることや
海外にいく機会があることも知っていましたし、でも僕は最初は断りました。
『見つけてどうするの?もうおじいさまも生きてはいないし知っている人もいないのにどうやって探せばいい?
こんなこと仕事の合間になんて無理だよ。何年かかるかわからないじゃないか』
 そのとき初めて祖母の口からあの絵の風景画は日本のこの場所であることを聞きました。

『確かめて欲しいのよ。あの人がどんな思いで絵を描き続けたのか、いえ、描き続けることができたのか。
ソルジュあなたも芸術を学んできた人ならわかるはずよ。キム・ソンジェの描いた絵がどれだけ優しいか。
悲惨な状況の中で生きてきた人には思えない、一緒に暮していたときのあの人からは考えられないほど
穏やかで美しくて心を癒される絵ばかりなのよ。
私は日本という国を許せないけど、あの人にこんな絵を描かせてくれた自然は受け入れたいの」
祖母はそういいながら僕が小さい頃に送られてきた荷物の箱から写し取った住所を渡したんです。そして
『そこに私のかわりにあの人に絵を描かせてくれた人がいる。そんな気がするの』
ポツッとつぶやいたんです。

 その後、他の国には行くことがあっても、日本だけは機会がありませんでした。
祖母はいつも僕からの情報を待っていたようでした。それがわかるから逢いに行くのがつらくって
仕事も忙しかったのもありますがダンダン疎遠になってしまった。
何の役にも立たないままおばあさまが危篤の知らせを受けて飛んでいったとき
奇跡的に正気に戻ったんです。祖母は僕が来るのを待っていてくれたんでしょう。
『ソルジュ、無理なことを言ってあなたに苦しい思いをさせたわね、ごめんなさい。
私ももう待てないみたい。でもね時間がかかってもいいから、あの人にいきうつしのあなたに
キム・ソンジェが残した風景を捜し出して同じ道を歩いて欲しいの。
本当にあなたはどうしてそんなに似ているのかしら、しばらく見ないうちにまた似てきたのね。
夢の中であの人の声が聞こえたのよ『ミソン ミソン』って、必死でその声を追いかけて・・・
目をさましたら、あなたが私の手を握って見つめていてくれた。一瞬 私の夫が帰ってきたって思ったわ』

 「祖母は穏やかな声で、昔を懐かしむように僕を見つめながらベッドの上で手を広げたんです。
僕は自分の愚かさが恥ずかしくて 申し訳なくて泣きながら祖母を抱きしめました。
チェ・ミソンは一度力強く僕を抱きしめると優しく背中を叩きその手を力なくはずして
それから深い眠りに入りました。そしてそのまま再び目を覚ますことはなかったんです。
 僕は長いこと立ち直れなくて、悶々とした思いで与えられた仕事を殆ど無気力でこなしていたんだけど、
それが大きな失敗に繋がって職場を追われることになりました。
何もすることがなくなって ただただ自宅で祖父が描いた絵を見て過ごす日が続いたんです。
両親も心配していろいろ手を尽くしてくれましたが,自分のなかに何かくすぶってるものがあって
何をする気にもならず半病人のように過ごしていました。

 それが今年の初めに独立した先輩から
日本で大きなプロジェクトがあるから、その撮影カメラマンとして同行してほしいと連絡が入ったんです。
「きたっ!」
そのとき自分が何を欲していたのかはっきりしました。僕はやっと先に進むことができるようになったんです。」

 ソルジュは車の中でこれまでのいきさつを全て話し終わると
「なぜもっと早くに行動に移せなかったかは 国の事情や家族の反対があってのことですが、
今度日本に来てみてあまりの自由さに驚きました。仕事もとてもやりやすくなっていました。
僕が留学してた頃はまだ在日韓国人としてはかなりの問題もありましたから、
一人であちこち歩き回ることも今は許されます。だからここにも来ることができました。」
そう結んだ。

 美園は無言のままうつむいて涙を流していたが、
愛子はハンカチで目頭を拭くと唇をきっと結んで
「ありがとうソルジュさん。キンさんの奥様がどんなにお帰りを待っていらっしゃたか 
お二人がどんなに強い絆で結ばれていらっしゃったかわかりました。
これから行くところにミソンさんが探して欲しかったものがあります。
そして私がきっとあなたに託された探して欲しかった人です。さ、車を走らせてください。
だいぶ周りが暗くなってきたけど もう10分ほど走ればつくわ。」
といった後
「ソルジュさん。その画廊はいまどうなってるの?」
とたずねた。
「ああ、画廊はそのままあります。でもおじいさまの作品は一枚もなくて 
画家を目指す人達が持ち込んできた絵を展示してあり、
時々有名な画家の個展を開いて運営費をつないでいるようです」
「そう・・・ミソンさんがお亡くなりになった後、どなたが管理されてるの?」
ソルジュがフッとため息を漏らして
「おかしいんだけど 父親を見ることもなく育って、
存在を受け入れることも出来なかった僕の母親が見ているんですよ」
そういうと、愛子はまた目頭をハンカチで押さえて小刻みに震えながら泣いていた。

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VOL2

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