季節(とき)のワルツ

ライン

■■秘密の宿へ■■

愛子が予約していたホテルは外見も新しい四階建てで 周りを竹林と緑の木々に囲まれていた。
予定のない旅行者がふらっと立ち寄っても気の済むまで温泉を楽しみ、
静かなときを過ごせるような落ち着いた雰囲気は来る途中ホテルを映し出していた大きな湖のせいだろうか・・・・・

 キム・ソルジュは静かにホテルの駐車場に車を止めると後ろを振り返り
「さあ、つきましたよ」
肩を寄せ合って眠り込んでいる愛子と美園を起こした。
「ああ、ごめんなさい。また寝てしまったのね。
あなたの運転があまりにも上手なものだからついうとうとしてしまって」
という愛子の言葉に半分眠気まなこの美園が
「はいはい、私の運転では危なっかしくて眠れません」
と悪態をついている。
その姿を見ながら、ソルジュが優しく微笑むと愛子があきれた顔で肩をすくめた。

 身軽ないでたちのソルジュが車からふたりの旅行バッグを降ろしホテルの入り口へ歩き始めると
「待って、ソルジュさん。私たちのお宿はこっちよ」
とホテルの横へと手招きをした。
 竹で飾り屋根を施したくぐり門の横には、「望郷の間」と墨字で書かれた看板が掛けられている。
暗くなってしまったので全体の風景を確認するのは難しい。
愛子に誘導されて、ソルジュと美園は石畳の上をついて行った。

 少し行くと表の新しいホテルとはかけ離れた古いたたずまいの建物が
ほのかな灯かりの中に見えてきた。
「さぁ、ついたわ。どうぞ入ってちょうだい。」
ものめずらしそうな顔をして立ち尽くしているソルジュと美園を先に入って招き入れると
まるで自分の家でもあるかのように勝手に部屋内を歩き回り、縁側のガラス戸を開け
空気を入れ変えた後、和室の奥にある小さな台所に入ってお茶の準備をしようとする愛子に
「おばあちゃん、ここはなんなの?誰にも会わずにここに来てしまったけど、大丈夫なの?」
たまりかねた美園が声をかけた。

 「二人とも突っ立ってないで、そこにお座りなさい。まずはお茶を頂いて落ち着きましょう。
美園は何にも心配しなくていいのよ。おばあちゃんに任せといてちょうだい。」
と穏やかに微笑みながらふたりの前に緑茶と和菓子を差し出し、自分もすすり始めた。
キム・ソルジュの大きな体はこじんまりとした和室には不似合いのような感じだが
本人はだいぶ気に入ったらしく嬉しそうにキョロキョロと周りを見回している姿には
子供がこれから始まる冒険を楽しんでいるような様子が伺えた。

 「さ、お茶とお菓子をどうぞソルジュさん。あなたの滞在期間中ずっとここにいていいのよ。
今日はゆっくり温泉につかっておいしい料理を頂きましょう。
明日、目が覚めたらあちこち見て回ったらいいわ」

「はい、おばあさま。僕はここに来てからずっとわくわくしています。不思議な感覚なんだけど
ここ初めてじゃないみたいな気がするんです。何故だろう、あの駅からこの宿に入るまでの道も
この部屋から見える外観もぼくの記憶の中にうっすらと残っいて、
それが少しづつよみがえってくる感じがする。
いったいなんなんだろう。」

 愛子とソルジュが楽しげに話している中で美園は一人、寂しさを味わっていた。
話の中に入ることもできず、口を開けば二人の邪魔になるような気がして居場所を失った猫のように
お茶を持って縁側に行き、おいてある籐椅子に腰を下ろし外を眺めていた。
初めて会ったときから、会うごとに気になる存在のソルジュは、結局、祖母愛子を探しにここまで来たのだ。
二人をあわせるきっかけを作ったとしても美園とソルジュをつなぐものは何もない。
ここに何日いることになるかわからないけど、時がくればソルジュは故郷の韓国に帰ってしまい、
用を果たした愛子はまたいつものように平凡な生活に戻るだろう。

「そして私は・・・・・・」
ポツリと独り言をもらした。
ソルジュにとっての美園は祖父キム・ソンジェを知るための単なる通過点にしか過ぎないのだ。
ソルジュを知りたいと思う反面 知ってどうするという葛藤が続いていた。
愛子の年齢を思わせない華やいだ声と、ソルジュの若者には落ち着いた美しい日本語が
美園の脳裏には別の誰か、恋人同士ではないもっと深い情感を漂わせていた。
「あなたたちは誰?いったいここはなんなの?」
見えない誰かに問いかけてみるが
その声は空に回って届いてはくれなかった。

 一人の世界に浸りこんでどのくらい時間が過ぎたのだろう。
「美園さん温泉に行きましょう」
その声にフッと目を開けると 椅子とセットのガラステーブルの向こうにソルジュの優しい笑顔があった。
「ああ、おばあちゃんは?」
美園はいつの間にか眠っていたらしくあわてて目をこすり周りを見回しながら訪ねると、
「二人で先に温泉にいってくるようにって。おばあさまは宿のご主人に挨拶に行かれたよ」
「えっ、いつ?」
「30分くらい前かな?」
「じゃ、ソルジュさんずっとそこにいたの?」
美園は大きな目をなおいっそう大きくして
「起こしてくれたらいいのに〜。もしかして私の事みてた?」
 笑いながらソルジュが右手に持っていた文庫本をふって見せながら
「時々ね、かわいい寝顔だなって思いながらみとれてた。」
いたずらっぽく笑って言うと
「もう〜、意地悪なんだから〜」
美園が立ち上がりテーブル越しに手をかけようとするのをソルジュはスルッと抜け身をかわし
自分のバッグを持って部屋の外へ逃げていきながら
「 美園さん、早くおいで」という声に
「まってよ〜」
と仲のよい兄妹のように返事をすると、
旅行カバンの中のお風呂道具をいそいで取りだしソルジュの後を追った

 薄灯りの廊下を、小走りで右に折れるとその向こうにソルジュの後ろ姿があり
自分を待っていてくれたのだろうと
いたずら心がわいてきて静かに近づいていくと
ソルジュは浴衣姿の女性の絵に無表情で目を凝らしていた。

「どうしたの?」
長身のソルジュを覗き込むように見上げ声を変えると
すっと右手が伸びて美園の肩を抱くと
その腕がかすかに震えているのを感じ、ソルジュの端正な横顔と
目の前にある絵を見比べながらじっとしていた。
するとその指先に力が入り、一筋の涙が頬をつたうと
「あぁ〜」
ソルジュの口から何とも言えないため息がこぼれでていた。

ライン

VOL2

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