季節(とき)のワルツ

ライン

■■追想(愛子)■■


 久山愛子は昨夜から、耳元に残っている懐かしい声に心を震わせていた。
「もうこんなおばあちゃんになってしまったのに、どうしちゃったのかしら。」
その声を何度も打ち消そうとしたが、あの静かにささやくような声は
遠い昔、育児と貧しい生活に疲れてへとへとになっていたあの頃に力づけてくれた人と同じものだった。

 昭和20年代は戦後の荒れ果てた日本が少しづつ回復し高度成長期と呼ばれる前の騒がしい時代だった。
誰もが貧しくていつも生きる事に追われていたのだ。
愛子は毎日のように飛び回っている米軍機の流れ落ちる玉を逃れるように故郷に帰ってきた。

 猟師だった父を早くになくし、兄弟はそれぞれ自分の家族を守るのがいっぱいで、
一人で暮らしている母を助けなければならず、もうとっくに適齢期は過ぎていたが見合い話も断り続けていた。

ある日、一人の老人が愛子の家を訪ねてきた。
隣村で畳の張替えをしていてこの辺りの金持ちの家に仕事に来ているらしい。
小作の手伝いに行っていた母千代が、茶飲み話に嫁ぎそびれた娘がいることを話していたのを聞いて
あちこちで評判を聞き、甥の嫁に来てもらえないかと頼みに来たらしい。
 愛子は千代に嫁入りする気はないと常々話していたのに話が違うとといたげに千代の顔を睨んでいた。
結婚の話は働いていたところでもあったのを母を一人にしておけないと断って帰ってきたのだ。
千代は愛子の強い視線を感じてか
「話は嬉しいども、この娘は気もきついし、頑固だし嫁にいってもつとまるかどうか・・・・」
確かに愛子は負けん気の強い女だ。子供のころに大好きだった父を失い。
頼りにならない兄や、物静かな姉、何処か気の抜けた妹のために殆ど小学校にも行けず、
15歳になって故郷を離れてから本や新聞を読み独学で一般常識を身につけてきたのだ。
断るための口実とは言え、母千代の物言いは愛子のプライドを傷つけていた。
「まあまあ、そういわんと、そこらで娘さんの話を聞けば、頭の言いよくできた娘さんとか。
そういう評判のいい人をうちに甥っ子にとお願いするのは申し訳ない気もするが、
おふくろさんが言われる気性の強さ、頑固さは、腹決めのよさと頑張り屋の裏返しだ。
是非とはいえないが話だけでも聞いてもらえたらと思ってきてみたんだが」

 老人岩山啓二はキセルに葉タバコを詰め込み火をつけるとゆっくり吸い込んでフ〜ッと吐き出した。
タバコのにおいが充満すると、啓二の姿が子供のころ膝に愛子を抱き
おいしそうにタバコをふかしていた亡き父の姿とダブって、話だけでも聞こうという気になってきた。
二人が黙って下を向いていると、啓二はぽつぽつと甥の生い立ちや履歴、今の状況をはなしはじめた。

 その夜から一月ほど愛子はいろんな事を考えた。
岩山啓二は
「甥に嫁ぐかどうかはゆっくり考えて決めてくれればいい」といいながらも
帰り際には
「あんたなら、弱くなってるあいつの心を開くことが出来る気がするよ」
と言い残していったのだ。
 30歳を目の前にして舞い込んできた見合い話の相手は聞いているだけで悲惨な状況にある男で
戦争中に妻と子供を失い、手元にはもまだ乳飲み児がいると言うのだ。

 「いくらなんでも、しょっぱなから子育てなんてできるはずがないじゃない。」
と断りの連絡をしようと思いながら、
 「なんてまあ、戦争が起こした人の不幸のつけを全部かかえこんでしまって。気の毒な人」
持ち前の情の深さで心を決めかねていた。
 そんな愛子の様子を伺いながら
「昨日岩山さんにあったんだけどねぇ、あした、甥ごさんをうちに連れてくるってさ」
愛子がびっくりして千代を見ると
「やっぱりねぇ、世間体もあることだし一度は嫁に行った方がいいとおもうんだよ。
もしお前が続かなくても、相手さんいもいろいろ問題がありそうだし、その時はかえってくればいい」
 愛子は母千代のこういう考え方が子供のころから気にいらなかった。
優柔不断で金持ちにぺこぺこして時代とは言え情けなくてたまらなかったのだ。
「いいわ、母ちゃんがそういうなら、私も嫁に行くことを考える。
その代わり嫁に行ったら私は二度とここには帰ってこないよ。
世間体がどうのこうのって一人じゃなんもできんくせに・・・私、嫁に行ったら死んでもそこをはなれんから」
  
 キム・ソルジュを迎えるための食事の支度を終えた愛子は割烹着をはずすと
茶の間にすわってお茶をすすりながら一息ついていた。
暫くして
玄関が開く音がして、その音と一緒に
「おばあちゃ〜〜ん、こられたよ〜」
美園の澄んだ声が聞こえ 
「こんにちは、おじゃましま〜す」
耳もとから離れなかった懐かしい声でわれにもどり小躍りするような思いで玄関にでていった。

 あれから50年以上の月日が流れ、元気と明るさで今だに婦人会の役員を頼まれたり
季節々の畑仕事をやりこなす愛子もすでに80と言う年齢を越えようとしていた。

ライン

VOL2

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